サイトアイコン 恋はいばら道

心を開くとはどういうことか?

先日の記事に、コメントで質問があった件について、思うところがあったので書きますね。

心を開くってどういうこと?
ネガティブな自分もさらけ出すってこと?

というものですが。

正直、心を開くのって、すごく難しいことだと思います。
私自身、旦那と出会うまでは、
付き合う人に本当の意味で心を開いたことはなかったんじゃないかと思うくらい。

どこかで壁があって、
どこかで、「どうせこの人に言っても分からないし」って警戒してた。

そのくせネガティブな感情はぶつけてるんです。
それで自分自身を相手に出しているつもりになってた。
まったく違うのにね。

自分の弱さ、醜さ、ネガティブな部分をさらけ出すこと=自分を出す ってことではないと思う。

でも↑みたいに考えちゃってる子はものすごく多い。
なんででしょ?

それは、ネガティブな部分=自分の最低な姿を見せても逃げずに愛してほしい!っていう、
底なしの願望のせいだと思う。

だってさ、なんで自分を出すって言う時に、
ポジティブな部分を出さずに、
ネガばっかり見せなきゃいけないの?

誰かに褒められてうれしい!とか、
私はここがひそかに自慢!とか、
それだって、自分のホントの姿なのに、
なんでそういうのを出さないで、
ネガばっかりを、「自分の本当の姿」って思うんでしょうか?

よく考えるとおかしくない?

これってつまり、
自分のダメな部分を見せる=自分を見せる→それでも私を好きだって言ってくれる=本当に愛してる
って図式で思いこんでるせいじゃない?

でも冷静になってみれば、
誰だって、知り合ったばかりのまだ好きほやほやな時期に、
いきなりネガな部分、ディープなトラウマだの悩みだの聞かされたら重いです。
せっかくの恋の華やかな気分も台無しです。

恋って、男性にとっては、女性そのもののの、ふわふわときれいで、いいにおいがするような
ロマンチックなものなのに、
なぜそれをわざわざぶち壊すような情報をどどっと入れようとするのでしょう?

もちろん、長く付き合っていくうちに、信頼関係ができて、
深く信頼できるようになってから、
小出しに自分のコンプレックスなどを打ち明けてもいいと思います。

でも、なんでもかんでも自分のネガな部分、
とりわけ恋愛に関するネガな性質などを、
相手にドーンとぶつけるのは、
ただの無粋というものです。

そして、それを、「自分らしくふるまっている」「心を開いている」と勘違いしてはダメだと思う。

だって、人間そんなにネガな感情だけで出来てるわけじゃないんだもん。
ホントは日々の生活の中には、
楽しいこともうれしいことも、得意になることも、わくわくすることもあるでしょ。
それを全部なかったみたいに、
なんで自分を悪い感情だけで演出するんでしょう?

それはさっき書いたみたいに、
ネガな部分を受けとめてくれることが愛だと思ってるからだし、
自分のマイナスの部分を、相手が埋めてくれることを期待しているからだと思うんだ。

でも、それは恋愛ではない。
とハッキリ言っとこう。

誰かがいなければ埋まらないマイナスなんて、ないんだよ。
誰かの想いに依拠した幸せなんて、なんてもろくて危ないんだろう。

そんな、日々コロコロ変わるようなものに、
左右されるなんて。

恋愛は、自分の足りないところを埋めるためにあるんじゃない。
ネガティブを、相殺するためにあるんじゃない。
確かに、自分のダメな部分も受け入れて、まるごと愛してくれるのは理想です。
でもそれは相手がそうしたいからそうするだけのこと。こちらから望むことじゃない。
自分にできるただひとつのことは、
相手のダメな部分を丸ごと愛すること。
それだけです。

では、心を開くってなんでしょう?

これは私もずっとテーマでしたし、
わからなかった。
どういうことが心を開くってことなのか。

私は友人にもほとんど心を開かない。
女の子に対しては、自分の弱みを吐露することで、
なぜか安心を与えあって仲良くなれるという法則があるものだから、
恋の悩みなどを打ち明けては、
心を開いている風を装ってた。

でも、本当の意味で信じてないのは分かってた。
一つだけ言えることは、
私がただ一人親友だと思っている人には、
悩みだけではなくて、うれしかったことも話せるということ。
彼氏ができて、幸せになった時に、真っ先に打ち明けて、
いっしょに喜んでくれると確信できるのは、彼女だけ。

それでも、彼女が聞きたくないだろう話は話さない。
そこは気を使ってしまう。

だから、心を開くって言うのは、どういうことかって聞かれても、
自分であれこれ考えてくれとしか言えない。
他人の私が、
「こういうことですよ」と簡単に言えるようなものではないのが事実。

私だって、分からなかった。
どうやったら心を開けるのか。
ネガばかりを吐露して、
相手の愛情を確かめるような「手段」ではなしに。
弱みを見せることで相手を縛ろうとするような「手段」ではなしに。

本当に、
日々思うことを素直に伝えられる、
相手が理解してくれるかどうかなんか気にすることもなく、思うままに話し、
相手にどう思われるかなんて気にすることもなく、自分の意見を話し、
相手の態度に、過度に反応することなく、
自分が理解されているということを信じられる状態。
相手を信じて、つくりものではない自分の素のままでいる。

むしろ、自分のネガティブな部分をさらけ出すのは簡単です。
自虐的でいるのは、人間は楽です。
もうすでに白旗を上げているんだもの。
「丸腰です私を攻撃しないでね」って言ってるんだもん。

むしろ難しいのは、
自分が愛されるに足る人間だという自信をもって、
フラットに物事に意見することだったりしませんか?

「私はこんな風に感じたの」と、
何でもないことに自分の考えを述べることのほうが
よっぽど緊張するし、怖くないですか?

相手にどう思われるだろう?
好かれるだろうか?とあれこれ気にして、
相手に合わせたくなって、
相手の顔色を伺いたくなって。
失敗したくない、嫌われたくない、呆れられたくない、と。
そんな風にバイヤスがかかって、なかなか自分の思うことなど言えなくないですか?

まずはそういうところから、
「開いて」いく必要があるのかなと。

そして、自分がうれしいと思ったこと、
相手を大切に思っていることを、
決して卑屈にではなく、
相手を覗うのでもなく、
むしろ、上から目線な(笑)くらいで、
素直に伝えられるか。

そっちのほうがよっぽど、勇気がいる。
そういうポジティブな部分を、キチンと相手に開示することも大事。

心を開くって本当に難しいです。
どういうことか分からなくて、
ぐるぐるぐるぐる試行錯誤しました。

でも、少なくとも思うのは、
自分の弱くてネガティブな部分をとりわけ相手にぶつけて、
相手の反応を見ることが、
その反応で、自分への愛情の有りなしを判別しようとすることが、
心を開いているという意味ではないということ。

なぜか女子はみんなやっちゃいがちなんですが。
やりそうになったら立ち止まって考えてみて。

本当に、そのネガティブな部分を先に見せる必要あるの?
それを許容してもらわないといけないと思いこんでない?

自分の本当の姿は、
本当にそんなに醜いの?

何も最低の自分を見せてそれを好きになってもらおうとしなくていいよ。
そんな無理難題は誰も解けないって(笑)

そんなことより、
一番リラックスしていて、
自分でも大好きな自分、
のびのびして、幸せで笑っている自分を、
相手の前で出せるのか。
その方が大事。

誰だって、ビクビクして自分を隠している人よりも、
のびのびとして、愛情を疑わずに振舞っている女性の方が
魅力的と思うんだから。

そういう風に、考えてみるのがいいんじゃないかなと思うんです。