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子どもは神様からの使い

もう徐々に薄れゆく記憶なので、
早いうちに書いておこうと思います。(笑)
いや、子どもができて、
まだホヤホヤの謎の生命体を眺めていて、
よく思ったこと。

それは、
「子どもって神様の使いみたいだなぁ。」
ってこと。

なんて言うか、まだしゃべれない、
ただじーっとこっちを見ていて、
自分の要求を、それと意識もせずか主張する生物。
記憶が残らないせいで、誰もそのころ何を思っていたかは分からないけれど、
目に宿る知性の光を見ていると、
とても、何も考えてないようには思えない。

伝える手段がないだけで、
何か思っているような。
ただ受け入れて、すべてを受容しているような。

そして、その存在だけで、
親という存在に、
存在意義というか、人間とは何か、という根源的なものを
問いかけてくるような。
試しているような。
そんな神々しい存在に見えることがある。

とても、未熟な生体とは思えない。
もっと、ピュアで、
無垢で、
ただただ受容する、
愛されることだけを望んでいる存在。

天使のようだ、とはよく言うことですが、
私には、裁きの神に見えました。

私につねに問いかけてくる。
試している。
お前の人間性はどうなのだ?
このピュアで無色透明の人間の器に、
何を満たそうというのか、と。

子どもを産んでから、
幾度となく、自分の人間性や、人生観、生きざま、
そういうものに向き合うことになって。
時には、自分の低俗な人間性にうんざりしたり、
この、卑屈で劣等意識の強い自分の嫌な面が、
子どもに悪影響を及ぼしたらどうしようかと怖れたりして。

でも、その恐怖がまた別の強迫観念を生むこともあるしで、
悩みは絶えず襲いかかってくる。
私自身が、母親に抱いたようないらだちや、
実母だからゆえの嫌悪感、絶望を、
こんなにも全身全霊で愛している娘に、
いずれ近い将来抱かれるのだとしたら、
とても耐えがたい苦痛だと怖れるのです。

子どもを産むということは、
自分の半生を、もう一度編集し直すことでもあるのだと、
よく思う。

もう一度自分自身の記憶の限界点までさかのぼり、
もう存在しない、幼かったころの記憶を想像し、
おそらくは、そのころ、世界のすべてを受容し、
すべての人間を愛し、愛されるだけの絶対的幸福な存在であったことを、
一生懸命思い描いてみる。

写真の中の私を見る限り、
いつも満面の笑顔で幸福そうに写っている。
母親の膝に、父親の肩にかじりつき、
大きな口を開けて笑っている。
そんな幸福な時代の記憶が、
どうして抜け落ちてしまうんだろう。人間とは。

記憶があるのは、
もっと自分の存在に悩み、
将来を憂い、
親を呪うような年になってからだという皮肉。

私が持っていない、唯一純粋無垢で絶対的に幸せだった時代のことは、
親しか持っていないのだと。
いま、自分の娘の幸福そうな笑顔を見、けたたましく笑う声を聞きながら思う。

お前はこんなにも幸福そうで、
こんなにも、口を大きく開けて笑い、
こんなにも、私たちを愛していたんだと、
いつかどうやって伝えられるというのだろう。
子どもは、自我が芽生える前は、
どんな人格なのだろう。

親のコピーでもない。
動物でもない。
おそらく、喜怒哀楽も、思うところもある、
だけど表現もできない、
記憶にも残らない、
不思議な生命体。
それは、神と呼んでもいいのではないかと
たまに思う。

プライドや、卑屈な思いや、悪感情などの、
ネガティブな思いはなく、
ただお腹が空いた、退屈だ、愛されたい、
というだけの純粋な欲望に従って生きる人間。
そんなものに対峙していると、
自分が自分だと思っている、人間性のほとんどが、
くだらないまやかしの後付けであるように思える。

こんな物想いをさせてくれる子どもというのは、
なんと得難い、貴重な存在であるのか、とつくづく思う。
子どもはかわいい、とか、
そんな言葉では到底言い表せないくらい、
子どもという存在は、
我々にあらゆることを、語りかけて来ているように思うのだ。

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